明けない夜もあるかもしれない
間違っても自殺志願者ではないし、メンヘラでもない。
手首も綺麗なままだし、友だちに「今すぐ死んでやる」「死にたい」などと怪文書を送ったこともない。
ただ、ふと思うことがある。
自分が死ぬ方法を、自殺以外でも選べたらいいのに、と。
ついでに、今すぐここからいなくなって楽になりたい、と。
世間一般の理想は老衰だと勝手に思っているのだが、個人的には誰かを庇う形で交通事故などに遭う、がいいなと思っている。
小さいころから特撮を観すぎたせいかもしれないが、もしアンケート表などがあればきっと、ヒーロー的な死に方にチェックを入れているに違いない。
ただ、これはわたしのエゴだ。
救われた側は自責の念に駆られるかもしれないし、実質わたしの生を押し付けられた形となるかもしれない。
自分を忘れて楽しく生きてくれ、だなんて死にゆく者のわがままだ。
死ぬということはなんと難しいのだろうか。
こんなことを公の場で書くといよいよ今後の転職活動が不利になりそうな気もするのだが、人間いつ死ぬか分からないからこそ、死について考えておくことは重要だと考えている…と言いつつ、めんどくさがりで腰の重いわたしはいつも後悔ばかりしているが。
ああ、めんどくさがらずにやればよかった、なんて思うことはザラであるし、「後回しでいいか」と明日の自分に丸投げすることも多々ある。
それは「明日がくるのは当たり前」という思考が根底にあるからだ。
もしかしたら、なんてことはこのとき考えない。考えられない。
我ながら矛盾しているとも思うのだが、浮かばないものは浮かばないのだから仕方ない。脳がきっとそういう造りになっているのだろう。
常に死に対する恐怖に怯えながら生きるよりも、明日への希望や些かの倦怠感などもまるごと抱きしめて生きる方が健康的だからだ。脳科学の研究レポートを読んだわけではないが、リスクヘッジの域を超えた恐怖は命を蝕む可能性が高いに違いないだろう。
(ここで大阪人お得意の「知らんけど」を添えておく)
今、この記事を書きながら、もしかしたらこれが最後の記事になるかもしれない、なんて物騒なことももちろん考えるわけだが、死は不親切だ。だからきっと、わたしが何も考えていないときにふっと前を横切る。
死後の世界を信じているわけではない。特にこれといった信仰もないが、悪魔的なものは怖いし関わりたくない。
形、声、人格、感受性…他にもいろいろあるだろうが、これはこの世界ならではのものであると思っているし、容れ物である「わたし」がいなくなればハイ、解散。もしかしたら引き継ぎなんてものもさせてもらえるかもしれないが、価値基準が変わる世界であれば今の価値観を持ったままだとかえってしんどい気がする。そうなると、「わたし」が「わたし」でなくなるわけだから、やはり解散ルートが濃厚だろう。
こうやってあれこれ書くのは好きだが、専門的に語れるほどの知識ではないので一旦ここで止めとする。永遠に掘り下げて、核の部分をぐるぐる回って悩みそうな気がするからだ。
ただ、2021年2月のわたしが何を思っていたのか、どうしても残しておきたくて記事にした。
ちなみに橋爪先生の『死の講義』をまだ手に入れられてないのだが、時間があるうちに読んでおきたいと思う。概要もまだ読めていないのだが(買う気まんまんでカートに入れっぱなしという重罪をおかしている)、橋爪先生は宗教に詳しい社会学者であると記憶しているので、そういった観点からアプローチするような内容なのだろうと思う(ここまで書いたら帯に書いてあった、はずかしい)。
ちなみにこちらです。 Amazonではかなり人気だそうだ。
そしてついでに散らかしがちな部屋だったり、返さねばならない学費もまだ残っているのでそれらもきれいに片付けなければならない。友だちと約束もあるし、新しい会社で働かなくてはならない。
そうなってくると、今日明日で死ぬことはおろか、数年は死ねない気がする。
「明日も死ねない」なんて考えていたらまた死ねない理由が増えて、知らぬ間に何十年という時を生きているのではないか。
何だか生きることがものすごく億劫で、しんどく感じる。漠然とした孤独感は日々、膨らんだりしぼんだりを繰り返している。
楽になりたいだとかも考える。だが、自分で死ぬ気はない。
憧れると同時に、やはり怖いのだ。生きたいと思う自分もいる。
それに今こうやって少し離れた立場からあれこれ考えられるというのは、自分が恵まれているという何よりの証拠だ。
だから無責任に「死にたい」とも言ってはいけない。
今あるこのすべてを当たり前とも思ってはいけない。
とりとめのないことをあれこれと書いてしまったが、そして何かと自戒っぽくなりがちであるが、明日のわたしもがんばって生きてほしいと思う。
そのためにくら寿司のテイクアウトを予約しました。
がんばれ!