『Backlog World 2021 旅 ~Journey~』レポ①
記事内容は表題通り。
わたしはまったくのエンジニア未経験かつ、これからIT業界で働こうとしている人間で、今はモラトリアムの余りみたいな期間(要は無職)を過ごしている。
なので今のところまだBacklogというツールにお世話になったことはないのだが、後学のため参加してみようと思った。
休憩時間になるとジェイビーちゃん(で合ってますでしょうか)がふよふよしているのがとても可愛かった。
ちなみにアーカイブはこちらから観ることができます。
Backlog World 2021 旅 ~Journey~ - YouTube
さて、コロナによって変化を求められ続けている中で、様々な知見に出会うことができたこのカンファレンスはまさしく「旅」という題にふさわしいと感じた。
こちらについては運営委員長のナカミチ氏が様々な思いを綴ってらっしゃるので、ぜひご覧ください。
noteに飛びます。
それから、タグ付けツイートをとても熱心に応援してらした中野氏のnoteのURLも貼っておきます。
こちらもぜひに。
(運営に携わってらした他の方々の分までピックアップできず、申し訳ございません)
専門用語については調べながらだったり、思考などが現場の方と違う可能性もあるが、その点についてはご容赦いただきたい。万が一、解釈が違っていたり足りていないなどがあれば、ご教授いただきたく存じます。
- ワークスタイル・トランスフォーメーション(株式会社キャスター 石倉秀明氏)
強そうなセッションのタイトルでした。戦えそう。
国籍や性別など、多様性が叫ばれている時代だが、働き方(=ワークスタイル)にも多様性が必要である。
今までは集合型(出社して、雇用形態も労働時間も同じで、新卒から長く勤めるような働き方)だったが、これからは分散型、つまり多様な働き方に変化していきますよ、とのこと。
しかもこの変化というのは本人が望む望まないに関わらず、訪れている。
確かに、テレワークが推奨され、「あれ? 思いの外働きやすいぞ」と感じた人も多いのではないだろうか。逆に、「やっぱり出社した方がいいな」と感じる人もいることだろう。出社することが評価対象になるべきではないし、成果を効率よく上げて、かつモチベーションを保てるのであれば
そのときに大事なのは、その場に「いない」人にあわせてコミュニケーションをとることである。
だからメンバーの誰かがリモート勤務のときは、出社している人間はリモートでミーティングをする。
そもそもリモート勤務は悪いことではないのだから、同等に扱われて当然だ。
もしミーティングに参加できない人がいれば、事前に意見を聞いておけば良いし、議事録も結果だけでなく、プロセスや決まらなかったこともきちんと記しておけばなお不公平が減る(このあたりは以前デブサミでもナカミチ氏が話されていたように思う)。
しかし、リモート勤務も良いことづくめではない。
たとえば、雑談であったり、ちょっとした相談がしづらいのだという。
このあたりに関しては、実際勤務をしたことがないことが影響して感覚が掴めなかったが、通りすがりに「あ、ちょっと」と声を掛けられるようなシチュエーションがない、というようなことだろうかと思う。それは確かにやりづらい気もする。
なので、雑談が「仕事をしていないイメージ」から、「仕事をするうえで必要なもの」に変わっていくのかなあと。雑談の中からアイデアなどが生まれることはしばしばありますものね。空気感や距離感が話しやすければ、議論の活性化にもつながるといえる。
それともうひとつ、欠点と呼んでいいかは分からないが、リモート勤務において重要視されるコミュニケーション能力も変化しているということ。
今までは話し上手の聞き上手が何かと重宝されてきたが、チャットベースのコミュニケーションが主体になってくると、書く力と読み取る力が求められるようになっていくのだ。空気を読むことから、正しい情報をいかにわかりやすく、シンプルに伝えられるか。
だから自分の思考を言語化できなかったり、文章をきちんと読めないととても苦労する羽目になる。パソコンやスマホの向こうでまさかジェスチャーしているなど誰が考えられようか。
チャットではボディランゲージも、大阪人お得意の擬音語祭りも通用しない。
なので、思考やプロセスなどを可視化することが大事になってくる。
これに関しては、リーダーの役目にも通じているという。
このあたりから「ウワ、わたしまだその域に達してませんわ」といよいよ手汗ダラダラになっていたが、石倉氏いわく「リーダーは邪魔してはいけない」とのこと。多様なメンバーが働けるよう、ルールや個々にあわせた目標設定をするのが役目なのだという。
そして上述したものはもちろん、スケジュールやToDoなどの管理も可視化しておくこと。結果ではなく、結果に向けた点ごとが重要で、評価よりも目標設定が大事であること、などなど。
働きやすい環境を整備し、そのあとは各々の多様性を尊重し、目の間のメンバーとミッションに向き合いながらチームの成果を上げるのがリーダーである。そのためには「信頼する/される」といったプロセスが重要であるし、多様性を受け入れられるだけのキャパシティも必要だよね、とのこと。わかる。
多様性という言葉には時々で変わるようなモチベーションも含まれており、人と比べてあれこれ悩む必要はない。
ときに触発されることもあるけれど、自分自身を潰してしまいそうなモチベーションの保ち方だったり、他者との比較はしてはいけないなあと感じた。逆に、自分の今のモチベーションを誰かに押し付けてしまわないように、と自戒の念をこめて書いている。
- 感想
こうだったらいいな〜っていう理想のリーダー像を垣間見た。おれのかんがえるさいきょうのリーダー、みたいなやつです。
働き方もまさしくそうで、変わるチャンスってきっと今なんだと思う。
チャット云々についてTwitterにも書いたのだが、文章を書くときに個人的に怖いのが「日本語が間違っている」ということ。
誤字脱字以上に、敬語・丁寧語・謙譲語が未だ使い分けができていない。だから目上の人に対して、しかも大人数の前で文章を書くということが怖い。失礼だとかいろいろ思われそうで、いつもドキドキしてしまう。
文章を書くのがにがてだという人はきっとこの感覚を持っていることが多いのではないだろうか。
加えて気を遣いすぎて長文になった結果、かえって訳が分からなくなり、論点がずれてしまう、なども挙げられると思う。
くわえて、どうしても出社しなければならない職種(福祉系や物流系など)の待遇や、SESが派遣先でテレワークになりにくい問題など新たな課題も山盛りてんこ盛りだなあと、このセッションに直接関係はないもののふと思い浮かんだ。
素晴らしいセッションをありがとうございました。
②に続きます。
明けない夜もあるかもしれない
間違っても自殺志願者ではないし、メンヘラでもない。
手首も綺麗なままだし、友だちに「今すぐ死んでやる」「死にたい」などと怪文書を送ったこともない。
ただ、ふと思うことがある。
自分が死ぬ方法を、自殺以外でも選べたらいいのに、と。
ついでに、今すぐここからいなくなって楽になりたい、と。
世間一般の理想は老衰だと勝手に思っているのだが、個人的には誰かを庇う形で交通事故などに遭う、がいいなと思っている。
小さいころから特撮を観すぎたせいかもしれないが、もしアンケート表などがあればきっと、ヒーロー的な死に方にチェックを入れているに違いない。
ただ、これはわたしのエゴだ。
救われた側は自責の念に駆られるかもしれないし、実質わたしの生を押し付けられた形となるかもしれない。
自分を忘れて楽しく生きてくれ、だなんて死にゆく者のわがままだ。
死ぬということはなんと難しいのだろうか。
こんなことを公の場で書くといよいよ今後の転職活動が不利になりそうな気もするのだが、人間いつ死ぬか分からないからこそ、死について考えておくことは重要だと考えている…と言いつつ、めんどくさがりで腰の重いわたしはいつも後悔ばかりしているが。
ああ、めんどくさがらずにやればよかった、なんて思うことはザラであるし、「後回しでいいか」と明日の自分に丸投げすることも多々ある。
それは「明日がくるのは当たり前」という思考が根底にあるからだ。
もしかしたら、なんてことはこのとき考えない。考えられない。
我ながら矛盾しているとも思うのだが、浮かばないものは浮かばないのだから仕方ない。脳がきっとそういう造りになっているのだろう。
常に死に対する恐怖に怯えながら生きるよりも、明日への希望や些かの倦怠感などもまるごと抱きしめて生きる方が健康的だからだ。脳科学の研究レポートを読んだわけではないが、リスクヘッジの域を超えた恐怖は命を蝕む可能性が高いに違いないだろう。
(ここで大阪人お得意の「知らんけど」を添えておく)
今、この記事を書きながら、もしかしたらこれが最後の記事になるかもしれない、なんて物騒なことももちろん考えるわけだが、死は不親切だ。だからきっと、わたしが何も考えていないときにふっと前を横切る。
死後の世界を信じているわけではない。特にこれといった信仰もないが、悪魔的なものは怖いし関わりたくない。
形、声、人格、感受性…他にもいろいろあるだろうが、これはこの世界ならではのものであると思っているし、容れ物である「わたし」がいなくなればハイ、解散。もしかしたら引き継ぎなんてものもさせてもらえるかもしれないが、価値基準が変わる世界であれば今の価値観を持ったままだとかえってしんどい気がする。そうなると、「わたし」が「わたし」でなくなるわけだから、やはり解散ルートが濃厚だろう。
こうやってあれこれ書くのは好きだが、専門的に語れるほどの知識ではないので一旦ここで止めとする。永遠に掘り下げて、核の部分をぐるぐる回って悩みそうな気がするからだ。
ただ、2021年2月のわたしが何を思っていたのか、どうしても残しておきたくて記事にした。
ちなみに橋爪先生の『死の講義』をまだ手に入れられてないのだが、時間があるうちに読んでおきたいと思う。概要もまだ読めていないのだが(買う気まんまんでカートに入れっぱなしという重罪をおかしている)、橋爪先生は宗教に詳しい社会学者であると記憶しているので、そういった観点からアプローチするような内容なのだろうと思う(ここまで書いたら帯に書いてあった、はずかしい)。
ちなみにこちらです。 Amazonではかなり人気だそうだ。
そしてついでに散らかしがちな部屋だったり、返さねばならない学費もまだ残っているのでそれらもきれいに片付けなければならない。友だちと約束もあるし、新しい会社で働かなくてはならない。
そうなってくると、今日明日で死ぬことはおろか、数年は死ねない気がする。
「明日も死ねない」なんて考えていたらまた死ねない理由が増えて、知らぬ間に何十年という時を生きているのではないか。
何だか生きることがものすごく億劫で、しんどく感じる。漠然とした孤独感は日々、膨らんだりしぼんだりを繰り返している。
楽になりたいだとかも考える。だが、自分で死ぬ気はない。
憧れると同時に、やはり怖いのだ。生きたいと思う自分もいる。
それに今こうやって少し離れた立場からあれこれ考えられるというのは、自分が恵まれているという何よりの証拠だ。
だから無責任に「死にたい」とも言ってはいけない。
今あるこのすべてを当たり前とも思ってはいけない。
とりとめのないことをあれこれと書いてしまったが、そして何かと自戒っぽくなりがちであるが、明日のわたしもがんばって生きてほしいと思う。
そのためにくら寿司のテイクアウトを予約しました。
がんばれ!
梅田のオアシス(ちょい渋め)
大阪駅前ビル。
あのビルの、ほどよく寂れた感じが好きなのです。
ご飯などいろいろ名店もあるそうだが、わたしが行くのはもっぱらマッサージ店。マッサージといったら、わたしの中ではもう大阪駅前ビルがパッと浮かぶほどにはお世話になっている。
以前行ったマッサージ店では、ホットアイマスク(使い捨てではなく、温め直しがきく方)を無料オプションでつけてくれたのだが、そのマスクはなぜかわたしの喉の上に置かれた。
ちなみに化粧はバッチリしていたので、目の存在感がなかったわけではない、と主張しておきたい。
片言の外国人スタッフがあれこれ気を遣いながら、一所懸命マッサージしてくれたのだが、ホットでアイに置かれるはずだったマスクが終始気になって仕方なかった。マッサージは気持ち良いのに、喉がそこはかとなく苦しくて、目隠しをされていないものだから照明が眩しい。
いつ移動するのだろうと気になっていたアイマスクは、結局最後までわたしの喉の上に鎮座していた。
よく喋るわたしの性格を見破り、あえて喉の上に置くというミラクルかつパーフェクトな対応だったのかもしれない。労るべきは喉だと。
たぶん、というか絶対、そうじゃないとは思うけど。
今日は最近よく通っているマッサージ店に行ってきた。よく通っている、と言っても最近は梅田に出る用事がまったくなかったため、常連とまではいかない。たまにふらりと現れる、何となく顔が分かる客、ぐらいの立ち位置だろう。ちなみに、ホットアイマスク解釈違い事件の店とは別である。
そのお店も、外国人スタッフが多く在籍している。恐らく半々ぐらいの割合ではなかろうか。
ちなみに、わたしは仕事さえしてくれれば国籍に興味はないし、むしろ外国人スタッフの方がお世辞を言ってくれたりするので好きだ(昔、天六のマッサージ店で「お姉さん、ハーフ?綺麗ね」とずっと言い続けてくれた外国人女性には思わず照れたが)。
わたしは顔や頭をマッサージされるのが好きなので、今日ももちろんセットでお願いした。
今日は外国人の、30代後半〜40代ぐらいの、気の良さそうなニコニコした女性が担当してくれるらしい。この店に入りたてなのか、少しぎこちなかったが、終始ニコニコしながらいろいろと気遣いをしてくれたのが嬉しかった。
しかし、彼女もそれだけでは終わらなかった。
背面をほぐしてもらって、ぐるりと仰向けになる。そうすると「お化粧とれるかな?」と聞くので、「大丈夫ですよ」と答える。
「ウン」と言うやいなや、彼女はタオルも何もなく素手でわたしのおでこに手を置いた。そして横にす、と滑らせる。
えっ、ちょっと待って、と。触られることに対する嫌悪感はなかったが、それよりも化粧直しもしていない、皮脂でギトギトになっている顔を触らせるのが申し訳なさ過ぎるのだ。
感染症がどうたらこうたらと騒いでいるこのご時世に、まさかの素手。しかし上手い。頭皮のマッサージがメチャクチャ気持ち良いのだ。
失礼とも何とも思わないから、「ギトギトで気持ち悪い」と思ったらタオル越しにしてくれていいですよ、と言うタイミングもなく、結局おでこ全開(帰りは前髪が超サイヤ人みたいになった)、顔面ギトギトのままマッサージは終わった。
最後に軽くトントンと肩を叩いてくれるのだが、「髪綺麗ね」「どこで切ってるの?」「似合ってる」とあれこれ褒めてくれたのが嬉しくて、一応いつも行っている美容室と担当してくれているお兄さんの名前を伝えた。
これだから大阪駅前ビルはやめられない。
やっぱりオアシスなのだ。
と言っても、いろんなマッサージ店に行っているわけではないから、まだまだきっといろんな出会いもあるのだろうが、そもそもの目的はあくまで「コリをほぐしてもらうこと」である。
その目的にたどり着くまでの道中にドラマ(?)があるのだ。それに、良くしてくれる店にはやはり通いたいと思う。
接客業はどうにも難しい仕事だし、わたしには向いていないと結論は出た。変なところで繊細で、めんどくさくて理屈っぽい。こんな店員絶対イヤだ。我ながらそう思う。
楽しいマッサージ店もある。
美味しいご飯もたくさん食べられる。
分煙されてるのかどうなのか分からない純喫茶も、よく分からないアダルトショップも、突然現れるコンビニも。
ユートピアではないけれど、おしゃれな空気に染まりきれないあの空間は、わたしにとってオアシスなのだ。
宿敵・Java(全戦全敗中)
いちばんはじめに触ったことがある言語は、実はRubyである。
その次に触れた言語は、わたしが職業訓練学校でヒイヒイ言わされたJavaであった。
今日はそんなJavaと久しぶりに手合わせをして、赤子の手をひねるようにあしらわれ、負けた。
久しぶりにCentOSを再インストールしようとしたのだが、せっかくなので思い切ってVirtualBoxごとアンインストールし、VMwareから入れ直したら死ぬほど時間を食ってしまったのだ。
インストールディスクイメージのダウンロードがとにかく長くて、当たり前といえばそうなのだが、今日はLinuxはやめることにした。
代わりに、久しぶりにEclipseを起動して、ネットショップのコードをいじってみる。やはりLogicがいけないのかエラーばかり出る。
会員ログインのできない、新規会員登録ばかり受け付ける胡散臭いネットショップ。絶対通報されそうだ。
フロントコントローラは何の書き間違いもない気がするので(そう思いたいだけかもしれないが)、問題があるとするならば恐らくLogicの方だと思う。
こういったことはQiita?に投げた方が早いのかもしれないが、もう少しだけちゃんと向き合いたいと思う。
久しぶりに触るとなかなか忘れていることも多くて、びっくりしてしまった。
メインはCCNAとLPICであるが、息抜きがてらJavaやブログサイト作成の作業も行っていきたいと思う。
サイト運営のためのサーバーをどうするか悩んでいるが、AWSに手を出すかかなり悩んでいる。シミュレータで試験勉強もしなければならないし、意外となんやかんやでやらないといけないことは多い気がする。
ちなみにCCNAは5月合格を目指しており、LPICもそのあたりの受験を考えている。
あまり大した積み上げはしていないので反省。
明日は引き続きCentOSのインストールと、CCNAの勉強をする。
それから入社用の書類が届いたら、ちゃんと連絡をして来月の予定を決める。
腰もじんわり痛み始めたので、ストレッチと筋トレも同じように積み上げなければ。
明日も頑張ろう。
時は命
「時は金なり」ではなく、「時は命」だそうで。
どこで読んだのか忘れてしまったが、出典元は恐らくはてなブロガーであるウイさんの御本だったような。恐らくいろいろなところで用いられている言葉だとは思うが、勝手にウイさんからの受け売りということで話を進めていく。
例えば、わたしが真面目に彼氏を探していたとする。しかし、あからさまに遊び目的であろう男とたまたま変に仲良くなってしまった。それはそれで、楽しいかもしれない。
しかし、彼に使う時間というのは、確実にわたしの命や若さをすり減らしていくのだ。その時間は後悔しても、お金を積んでも戻ってこない。時計の針はぐるりと回って元通りかもしれないが、人の時間はそうはいかない。毎秒、毎分、着実に時間は進んでいるのだよ、という教えをわたしたちは日々心に留めておかなくてはならない。
刹那的な楽しさに身を委ねた末路など容易に想像がつくことだろうと思うが、それに関しては論ずるところではないので割愛する。
ちなみに、ウイさんの著書である『ハッピーエンドを前提として』は生まれてはじめて(この単語よく出てくるな)買った恋愛のハウツー本である。自己啓発本嫌いのわたしだが、感想もメールさせていただいたぐらいにはきちんと読んだ。ちなみにわたしの周囲を見渡してみても、未だ彼氏ができる兆しは見えない。眼鏡の度数が合ってないのかも、なんて冗談が通用する年月はとっくに過ぎて、正真正銘の「何の縁もない」状態である。
そもそもわたしはもう少し前段階の本を読むべきだったのかもしれない。『小学1年生』とか。
そんなこんなで、『ゼルダの伝説 スカイウォードソードHD』発売決定おめでとうございます。
ブレワイ続編情報を死ぬほど期待してしまっていたが、青沼Pから「待て」と言われてしまった以上、待つほかございません。生きる理由は増やしてくれてありがとう。
さて、わたしは趣味を聞かれて答えられるほどの趣味がないことが地味に悩みだった時期がある。
でも趣味ってどこからが趣味なんだと思ったりもしていたが、よくよく考えなくても範囲なんて曖昧で当たり前で。
資格も許可も要らないものなんだから、そりゃそうだって思って。
クルーザーの資格持ってるけど、ふだんクルージングを全くしないんだったらそれはきっと趣味じゃないし、読書とかいうありきたりな趣味も、マメに本を読んでいればそれは趣味と呼んでいいと思う。
ちなみにわたしの趣味は読書である。西洋美術が好きで、というか関心は文化史に寄っている部分もあるが、中野京子さんの本を高校生のころからずっと集めては何度も読み返している
大学はたまたま入った学科で社会学にハマり、そこから哲学や宗教学(元々キリスト教の学校に中学から通わせてもらっていたという縁もあるが)にも興味を広げ、たまに勉強している。
ただこちらに関しては、アウトプットする機会がまったくないため、なかなか知識が定着しないという悩みが発生してしまった。
こういう場でこそ使っていくべきだとは思うので、どこかのタイミングで社会学的思考を使った記事も書いていきたい。炎上しませんように。
あとは料理をするのも好きだ。
食べることが好きだから、作ることが苦だとは感じない。
ネットは鉱山、レシピは宝石の原石だと思っているぐらいには好きだと思っている。
ゲームも好きだし、文章を書くのも好きだ。もちろんネットも。
そう考えると趣味は多い方かもしれない。加えて、興味のある分野も多いため、まったくの無趣味ではないのは確かである。
あとはもう少し健康的な、例えば筋トレやウォーキングも趣味として取り入れていきたいのだが、とにかく続かない。筋トレはまだ続くが、ウォーキングやランニングがてんで続かないのだ。
数駅歩く(大阪なのでたかがしれているが)など歩くこと自体は好きなのだが、目的地も何もなくただいつものルートを歩く…というのがどうにもにがてなのだ。
今年の目標に追加するか悩んだが、とりあえずは筋トレだけで勘弁していただきたいところである。
とはいえ、コロナによる外出自粛に加えて、仕事をしていない期間が長引いてしまったことから、体力が低下しているのは間違いないだろう。
春からせっかく所得が増えるのだ。どんぶり勘定だが、約1.7倍増える。
ちなみに来年から住民税に泣かされそうな気もするが、それは今は置いておいて。
ワクチン接種や感染者数減少による外出自粛は少しずつ緩和されるだろう。
そのときにめいっぱいいろんなことに挑戦したり楽しめないというのは、とっても損だと思う。20代のこの健康体で、息切れするだなんて情けないにもほどがある。
時は命だ。
ぐうたらしてしまいがちな自分へ、自戒の念をこめて。
結局は回顧録
生まれてはじめてと言っていいぐらい、流行りに乗った。
正確に言えば「乗せてもらった」かもしれないけど、あえて「乗った」と言わせてほしい。
良くも悪くも世間の話題になっている、「Clubhouse」に招待してもらった。
音声版Twitterと呼ぶ声もあったが、シンプルな集団電話と表現した方が個人的にはしっくりくる。
人見知りで、とにかく友だちが少ないわたしは同業の知り合いが欲しかったので、友だちに「招待して」とお願いしたのだ。
初日は全然誰とも話せなかったけど、日が経つほどに話せる人が増えてって、ギャルもオカマもみんな友だちって感じ。
IT業界の知り合いも増えて、部屋によってはモデレーターにしてもらってワイワイ話したりして、びっくりするぐらい人脈が広がっていくのを感じた。
服が散らかった部屋で、ダッサい服を着て、ボサボサ頭に世界中の不幸を集めたような顔をしていても、人とやりとりできる新しいツールを手に入れたわたしは今、友だちづくりに邁進している。
無職の特権、と勝手に長い夏休みを謳歌しているのだ。
1社目はブラック企業で、上司のパワハラとモラハラで円形脱毛症ができて辞めた。
2社目は正社員になっても時給制のまま、昇給とかいろんな基準が不明瞭で辞めた。
3社目は契約社員だったけど、とにかくお給料が安くて残業代も出ないから辞めた。
長くて1年半、短ければ1年勤めてなかったぐらい、転々としていた。飽き性な性格が災いしたところもある。
幸い実家もあって、父母も元気。わたしも身体は丈夫だから(一時期禿げており、精神的にギリギリだったが)、少しゆっくりすればケロッと蘇った。
職歴も学歴も最悪で、資格もスキルもない。強いて言うならコミュニケーション能力は評価してもらえる程度の、凡人も凡人だ。意識高い系でもなければ、自分を発信しようなんてしたこともない。出された料理はいつも写真を撮る前に食べてしまうし、そもそもスマホの画像フォルダなんてオタクな画像で溢れている。
だから手に職をつけたかった。飽きなくて、なるべく難しくて、自分の能力や技術にお金がついてくる仕事。
そうだ、IT系だ!
そう閃いたが、コロナ禍で何の知識もスキルもない中で転職するのはさすがにまずい。とはいえ、独学で勉強するのには限界がある。
そんなとき、いつもわたしのネイルを担当してくれているお姉さんが職業訓練学校の存在を教えてくれた、夏のある日。
すぐさまわたしは飛びついて、何とか職業訓練を受けられるようになった。Java対わたし、日々戦いを繰り広げながら、最後は肩なんか組んじゃったりして、職業訓練学校も無事卒業してしまった。
いよいよ無職が加速して、その間に少し精神的に不安定になったりもした。
クリスマスを前にして、先の見えない不安にはじめて恐怖したのだった。
書類選考も含めたら、秋から70社以上は受けてきたのではないか。
これまた生まれてはじめて真面目に就活したものだから、慣れない学習内容と未経験分野への転職のための準備も重なって、かなり疲弊したことを覚えている。
途中、内定は出たものの「やっぱ違うな」と感じて辞退したり、内々定として保留してもらえたものの、コロナのせいで案件が減ってしまってすぐには採用してもらえなかったり。もう少し頑張ろう、と自分を鼓舞しながら就活した。
採用サイトを使っているくせにうんともすんとも言わない企業も意外と多くて、いよいよ自分に価値がないのではないかと傷付いた。きっと相手は何とも思ってないのだろうけど、その企業にはきっとお世話になることはないと思う。
ウンウン苦しみながら就活を続け、内定を断ったことを後悔しそうになりかけたころ、先日ついに内定が出た。
しかも私服で、某ソフトクリームの乗ったデニッシュパンが美味しい喫茶店で30分ほど話をしただけ。
それでも「4月からよろしくお願いします」と頭を下げてくれた未来のボスに、わたしは何としてでも恩に報いなければと感じた。
新しい会社は今まで受けた中で2番目に待遇が良かった。途中で折れなくて良かったと心底感じた。
小さな会社だが、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の精神を持ち、自己研鑽に励みたいと思っている。
さっそく設定した社用メールアドレスがすごく嬉しくて、メールのフォルダを何度も眺めた。
就職先が決まって次に不安になったことがある。とにかく何も知らなさ過ぎるのだ。
知り合いにIT系の仕事をしている人間はいないし、SNSも真面目にやっていないものだから、自分のこれからについて一緒に考えてくれるような相手がいない。もちろん彼氏だっていない。
試しにTwitterを検索してみたが、意識高い系のようなハッシュタグのオンパレードにビビったわたしはフォローを諦めた。
勉強会に参加しようにも、業務の話云々とやらで、会ったところで何を聞いて良いのかすら分からない(今振り返ると、きっと何でも答えてくれたんだろうなとは思うけど。決めつけてごめんなさい)。
そして冒頭へ戻る、というわけだ。
「Clubhouse」まだまだ気の利いたことも言えないし、専門知識だってまったく持ち合わせてもいない。Javaなら多少分かる程度だが、Logicがうまく動かなかった人間なので、信用度は低い。
それでもわたしの話を聞いてくれる人がいる。緊張してしまって、アドバイスすべきときに就活の話が抽象的になってしまったりと、失敗したなあと感じることもあるが、良い経験だと思う。
セキュリティ的に些か難はあるらしいものの、きちんと改善されることを祈っている。
生まれてはじめて乗った流行りは何ともむずがゆいが、この感覚も悪いものでもないな、と感じた。